存在するということ

永らく、サボってしまったせいか、アクセス数も伸び悩んでますね(笑)
6月6日に研修も無事に終了し、6月8日誕生日の海拓の誕生パーティーも盛大に行われ、今週からは仕事に没頭できるようになりました!


6月7日は代休ということもあり、映画を見に行きました。何を見たかといいますと、

明日の記憶

です。俳優渡辺謙がこの原作に惚れ込み、映画化された作品です。妻と見に行ったのですが、館内は「人生の先輩」(妻曰く)が多く、我々の様な若輩は居ませんでした。


先日の韓国映画(5月29日ブログ参照)に引き続き、若年性アルツハイマーに関する作品でしたが、「私の中の〜」は女性が病気になり、男性が見守る側、「明日の〜」は男性が病気になり、女性が見守る側ということで、夫婦関係においての愛というものを考えさせられました。そして、それ以上に人の存在ということにおいては深く、深く考えさせられました。研修でよく見かけますが、自分が良ければとか、今の自分を受け入れてくれる人とのみ付き合うとか、一言で言うと、自我が強く、強情な人(かく言う私もその典型でしたが)は本当の意味で、存在するということが分かっていないなと感じます。
なぜなら、いくら自分が


俺は矢崎哲也だ!」


と言っていても、誰も認識してくれなければ、存在しないのと同じですからね。(映画「素晴らしきかな人生」の様にです)


しかし、自分が誰なのかも分からない状態でも、一人でも多くの人が


あなたは間違いなく矢崎哲也だ!」


と認識していれば、僕は矢崎哲也として過去も、今も、そして明日も存在していきますからね。やはり、周りに受け入れられない自我や、認めてもらえない自我はなくしていかなくてはいけないですね。


部下が上司に望む声の多くは「認められたい!」です。この「認めてもらいたい」というのは人の本質でもあるのかも知れません。最近の親が子供を殺したり、家族の間の殺人というのは、家庭内でのお互いの存在を受け入れ、認め合うということが薄いから起きている事件かなとも思います。家庭でも、職場でも、お客さんとも認め合うということが一番人が嬉しくなる要素なのかも!


「認められたければ、まず自分から相手を認めなさい!そして、一番に認め、受け入れなくてはいけない相手は、あなた自身である!」